こんにちは
私は神学校で何年も勉強した。 その長年の研究によって、聖書の多くの箇所の意味について、専門家である学者たちが互いに意見を異にしていることがわかった。 では、これらの専門家が互いに同意しないのであれば、真実が何であるかをどうやって知ることができるのだろうか? 答えは簡単だ。 何が真実なのかはわからない。 私たちは多くのことについて、何が真実なのかわからない。 それでいい。 すべてを知ることはできないし、すべてを知る必要もない。 私たちの愛する父だけがすべてを知っておられ、私たちは父を信頼することができる。
それで、ここに問題はあるのだろうか? そうだ。 問題がある。 問題は、私たちの愛に満ちた父が、人間の子供たちに探究心を与えたことだ。 私たちは物事について考えたり、推測したり、仮説を立てたり、議論したりするのが大好きだ。 これはいいことだ。 しかし、議論には必然的に意見の相違が伴うものであり、意見の相違は分裂につながりかねない。 私たちが自問自答しなければならないのは、意見の対立しているテーマが重要かどうかということだ。 私は、教会の初期から、クリスチャンが時には激しく意見が対立することの多くは、重要なことではなかったと考えている。 なぜなら、私たちの愛に満ちた父は、私たち人間が定義したり理解したりできるようなルールに従って決定を下すことはないからだ。 (この最後の言葉を聖書的に確かめたいなら、ヨブ記38章から41章、イザヤ書40章12節から28節、そしてマタイ20章1節から16節のぶどう園の労働者に関するイエスのたとえ話を試してみてほしい)。
悪魔はこの人間の傾向(議論や憶測を好む)を利用して、イエスの共同体のメンバーの間に分裂を引き起こしたのだと思う。 私たちはどうでもいい話題に縛られてしまう。 私たちには重要な仕事があるのに、悪魔は重要でないことについて話したり議論したりして時間を浪費させる。
ここで、議論中のトピックが重要かどうかを見分けるのに役立つ簡単なテストを紹介しよう。 神によって遣わされた天使が現れ、その話題について、それがどんな話題であれ、絶対的な真実を語ってくれたとしよう。 この真実を知ることで、今日と明日の私たちの生き方にどれほどの違いが生まれるのだろうか? もしその答えが「まったくない」、あるいは「あまりない」なら、その話題はおそらく時間をかけるに値しない。
もう一つのテストは、そのテーマについてクリスチャンの間で意見の相違があるかどうかだ。 敬虔で、誠実で、神に忠実なクリスチャンが意見を異にする問題であれば、特に何世紀にもわたって意見を異にしてきたのであれば、それは神が明らかにしないと決めた問題であり、したがっておそらく重要ではないのだろう。
現実を直視しよう。 私たちは誰もすべてを知っているわけではない。 すべてを知ることはできない。 重要なのは、すべてを知る必要はないし、すべてを知ったふりをする必要もないということだ。 私たちが知らないことはたくさんあるし、これからもある。
だから、僕はドント・ノウイストなんだ。 端的に言えば、”Don’t-Knowist “であることは、私たちクリスチャンが議論になるような質問の多く、おそらくほとんどの答えがわからないことを喜んで認めるということだ。 私の意見もあるかもしれないが、間違っているかもしれない。 物事を知っているふりをする必要がないからだ。 私は問題に関してどちらかの味方をする必要はない。 理解できない、よくわからないどうでもいいことを守る必要はない。
イエスの命令に従うこと、神を愛し、他者を愛すること。
私たちの愛する父が、私たちを祝福し、力づけ、大切なことに集中させてくださいますように。
イエスは主である。
ピーター・オー
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