こんにちは
そうだ。 聖書には矛盾がある。 聖書には、他の箇所と矛盾する箇所がたくさんある。 明確な例から始めよう:
- マタイによる福音書によれば、イエスと一緒に十字架につけられた盗賊は、二人ともイエスを罵倒した(マタイ27:44)。 しかし、ルカによる福音書によれば、イエスを虐待したのは盗賊の一人だけだった。 もう一人は仲間の犯罪者を叱責し、イエスに自分を思い出してくれるように頼んだ(ルカ23:39-43)。
十字架刑に関するこの2つの記述は明らかに矛盾している。 どちらか一方は真実かもしれないが、両方が真実ということはあり得ない。 もし一方が真実なら、誰かが、ある時点で、もう一方の報告の誤りを犯したに違いない。
別の例を挙げよう:
- ユダはイエスを裏切るためにもらったお金で何をしましたか? マタイによる福音書の記述によれば、彼は神殿に金を投げ捨て、首を吊って自殺した(マタイ27:5)。 使徒言行録によれば、ユダはその金で畑を買ったという(使徒言行録1:18)。
繰り返すが、どちらの証言も真実であるはずがない。
だから、聖書には疑いなく矛盾がある。 実際には、上の2つだけでなく、たくさんある。
これらの矛盾は重要なのだろうか? いや、そうでもないよ。 もし私たちが本当に大切なこと(イエスの命令に従うことなど)に集中するなら、聖書の矛盾などどうでもよくなる。 これらの矛盾が重要になるのは、聖書に矛盾はないと他者に教える人がいる場合だけだ。 聖書に矛盾がないという教えは、人間の教えであり、間違っている。 人間の教えをあたかも真理であるかのように教える者は、イエスが当時の宗教教師たちに語ったときの言葉を考えるべきだ。
「このチャラ男どもめ! イザヤがあなたたちについて預言したのは正しかった:この民は、口先では私を敬うが、心は私から離れている。 彼らは無駄に私を崇拝している。彼らの教えは単なる人間のルールに過ぎない』」。(マタイ15:7-9)
興味深いことに、聖書に矛盾はないと教えるようになったのは、ここ数百年のことだ。 もちろん、これは上記のような矛盾に対する説明を見つけなければならないことを意味する。 これらの矛盾については、合理的な説明もあれば突飛な説明もあり、多くの説明がなされてきた。 聖書には矛盾しか書かれていない。
だから、聖書には矛盾があるが、それを心配する必要はない。 重要なことに集中する必要がある。 重要なことは何か? 愛する天の父を愛し、互いに愛し合うこと。 イエスはそう言われた。
私たちの愛する天の父が、私たちを祝福し、安全に保ち、ご自身の真理へと導いてくださいますように。
イエスは主である。
ピーター・オー
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