こんにちは
イエスは教会のリーダーシップについて何と言われたか? 私たちの教師はイエスご自身であり、イエスに従う私たちは皆平等なのだ、と:
「あなたがたにはひとりの先生がおられ、みな兄弟である」(マタイ23:8)
「...あなたがたには、キリストというひとりの教師がいる」(マタイ23:10)
イエスの弟子たちは、たいていの人間と同じように競争心が強かった。 彼らは、誰が一番偉いかを自分たちの間で議論し続けた(マルコ9:33-34、ルカ9:46、ルカ22:24)。 そのうちの二人は、イエスの王国で最高の地位を得ることをイエスに約束させようとさえした(マタイ20:20-21、マルコ10:35-37)。 しかし、イエスは弟子たちに、彼らの中で最も偉大なのは、人に仕える者であると言い続けられた。
“あなた方の中で一番偉い者が、あなた方の僕となる。 自分を高くする者はみな低くされ、自分を低くする者はみな高くされる”。 (マタイ23:11-12)。
“最初になりたいと思う者は、すべての人の最後になり、すべての人の僕とならなければならない”(マルコ9:35)
イエスはまた、十二人に対し、互いに対する振る舞いは、人間の組織の中で “偉い “人たちの振る舞いとはまったく異なるものでなければならないと言われた。
「あなたがたは、諸国の支配者が彼らを支配し、彼らの大いなる者が彼らを専制していることを知っている。 しかし、あなたがたの中で偉くなりたいと思う者は、あなたがたの僕となり、 あなたがたの中で一番になりたいと思う者は、あなたがたの奴隷と ならなければならない。(マルコ10:42-44、ルカ22:24-26も参照)。
そして、イエスは次の言葉で、弟子たちが従うべき謙遜な奉仕の模範を自らに示された。
「人の子が仕えられるためでなく、仕えるために来たように。(マタイ20:28、マルコ10:45、ルカ22:27も参照)。
そこでイエスは、自分がしもべの役割を引き受けたように、弟子たちも互いに謙遜なしもべとなるべきだと明言した。
イエスはまた、弟子たちがどのようにへりくだるべきかを示す模範として、小さな子どもを用いた。 (その社会では、小さな子供には名誉も地位もなかった)。
…弟子たちはイエスのところに来て尋ねた。”では、天の御国で一番偉いのは誰ですか?” 彼は小さな子供を呼び寄せ、その子供を彼らの中に置いた。 そして言われた:「本当に言っておくが、あなたがたが変わって、幼な子のようにならなければ、決して天の御国に入ることはできない。 だから、この子のように卑しい立場につく者は、天の御国で最も偉いのである” (マタイ18:1-4、ルカ9:46-48も参照)。
イエスが、ある従者が他の従者に対して権威を持つことを示唆したことがあっただろうか? クリスチャンの中には、イエスがペテロに言った「あなたはペテロであり、この岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16:18)という言葉を用いて、イエスはペテロを他の弟子たちの上に立つ指導者に任命し、教会の階層構造を制定したと主張する者もいる。 しかし、彼の言葉は、ペテロが他人の上に立つべきだとは示していない。 キリストがその上に教会を建てられる岩という考え方は、ペテロが権威者ではなく、他の人々を支える土台であることを示している。 ペテロ自身は決して他者に対する権威を主張せず、自らを「同じ年長者」(第一ペテロ5:1)と表現し、他の年長者たちにも「自分の担当者を支配するのではなく、群れの模範となるように」群れを牧するように勧めている。(第1ペテロ5:3)。
イエスの教えは一貫して、彼の従者たちは誰も他者に対して権威を持ってはならないということを確認していた。 その代わりに、彼らは互いに謙遜な奉仕者となるべきだった。 イエスはまた、他人から名誉を求めたり、受け取ったりしないようにとも言われた(ルカ14:7-11。 マタイ23:1-12も参照)。 権威や名誉のある地位を求めるなと言うイエスは、当時の文化に完全に逆行するような振る舞いをするようにと、弟子たちに言われたのである。 1世紀の東地中海文化圏では、名誉を求めることは非常に重要であった。 宗教指導者たちは名誉を重んじ、イエスはそれを見て批判した:
“
彼らは、宴会で栄誉ある席に着き、会堂で一番良い席に着き、市場で敬意をもって挨拶され、人々に『ラビ』と呼ばれるのが好きなのです」。(マタイ23:6-7)。
イエスは12人の従者を「使徒」と呼ばれた(マタイ10:1-4、ルカ6:13-16。 マルコ3:14-19も参照)。 上記のイエスの教えを考えると、「使徒」が権威や名誉を与える称号ではなかったことは明らかである。 使徒 “という言葉は遣わされた者という意味だから、単に仕事の内容だったのかもしれない。 イエスは使徒たちを宣教に遣わされた(マルコ3:14)。 今風に言えば、宣教師である。 イエスは弟子たちに、「ラビ」、「父」、「先生」といった名誉を与える呼称を使って互いに呼んではならないと言われた(マタイ23:8-10)。 だから、この箇所やこの記事で引用した他の箇所を見る限り、弟子の何人かに名誉や権威を与える称号を与えたとはとても思えない。 これらの箇所には、使徒たちがイエスから他の弟子たちに対する権威を与えられていたことを示唆するものは何もない。 使徒たちは最終的にこの教訓を学んだようだ。新約聖書全体を見ても、十二人のうちの誰かがイエスの他の信者たちに対する権威を主張した箇所はひとつも見当たらない。 (見つけたら教えてください)。 まじめな話、教えてください。 コメントを残すか、Eメール:peter@followtheteachingsofjesus.com)。
今日、キリスト教社会で責任ある立場にあるイエスの信者は、これらの教えを真剣に受け止める必要がある。 他者からの尊敬や敬意を享受したくなるものだが、イエスは、私たちはみな平等であり、真の謙遜をもって互いに仕え合わなければならないと教えている。
最後に、このトピックに関するイエスの教えの多くがマタイによる福音書23章から来ていることにお気づきだろうか。 教会のリーダーシップに関するイエスの教えに興味があるなら、この章全体を注意深く祈りながら読む価値がある。 章の冒頭(1-12節)でイエスは、ご自分に従う者たちに期待する振る舞いを、当時の宗教指導者たちの振る舞いと対比させている。 そして、宗教指導者たちに対する残酷な批判に入る。 彼は何度も同じフレーズを使って彼らを表現している。 これは現代の英語の聖書では通常「偽善者たち」と訳されているが、ギリシャ語では実際には「役者」という意味である。 つまり、演技をしている人、自分を偽っている人という意味だ。 「偽善者ども』では伝わらない。 イエスの言葉を “偽者ども”、”恥ずかしがり屋ども”、”チャラ男ども “と訳せば、イエスの言わんとしていることがよりよく理解できるかもしれない。
私たちが愛する父の御国で効果的な働き手になりたいのであれば、イエスのこれらの教えを真剣に受け止めなければならない。 私たちの誰もが、他者に対する権威を持つために愛する父から選ばれたわけではない。 私たちは皆、愛する家族の姉妹や兄弟のために謙虚な奉仕者となるよう召されている。
私たちの愛する天の父が私たちを祝福し、私たちの安全を守り、私たちの目と心をイエスに向け続けてくださいますように。
イエスは主である。
ピーター・オー
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